主催者井上ともやすが語る!


第一回 〜井上ともやすが乗っ取った?の巻〜
 


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アコーステックボイスは1992年春、場所は現在と同じく上野水上音楽堂で始まった。
何故始めたのか?どうやって始めたのか?とよく聞かれるので、今回は順を追う形になるかもしれないが、
とりあえず始まりのことを書いてみよう。

実はその前年1991年に「アコースティックゲリラ」というイベントが行われたのが発端なのだ。
それで「飛び入り大募集」と書かれているのを楽器屋かどこかで発見した僕はすぐさま主催者に電話を
かけた。

なにしろ発表の場に飢えていた。月1回ほどのライブはノルマ付きで、お客さんが入らなければその分を
お店に払うという、過酷なシステム。それに比べてこれはミュージシャンが自分達で作り出すコンサート!
こんなのに憧れていた。ウッドストックのような意思のある野外コンサート、それとか俺の好きな吉田拓郎が
よくやってた野外、「朝までやるぞー!」と叫んでみたかった。もちろん朝までというのはおいといて、とにかく
これに飛び入りしたかった。
電話に出た主催者は「アコーステックゲリラ」というわりにはとても礼儀正しく、紳士的だった。「とりあえず
会いましょう!」ということになり、とある喫茶店で落ち合うこととなった。

主催者の名は伊藤さん。会ってみても電話と変わらず、いやそれ以上に普通っぽく、真面目そうな人だった。
「さっそくテープを聴かせて。」と言われたのでデモテープを取りだし、聴いていただいた。曲は確か「汚いのが
あたり前」(笑)だった。
しばらく聞き入ると彼は「とてもいいよ。飛び入りじゃなくてレギュラー枠で出てほしい。実は1つキャンセルが
出て空いてるんだ。」とのこと。とっても喜んだのは言うまでもない。

そして出演者との顔合わせなどがその後あり、本番を迎えた。ただでさえ自信過剰でいきがってた俺は
出演者のほとんどがクズだと思いながら水上音楽堂のベンチに寝そべりながら演奏を聴いていた。ただ
なんでもそうだが第一回というのはそれなりにパワーがあるもんだ。うまくことが運ばないドキドキ感もいい
ように手伝って、結構熱気にあふれてたのは事実だった。出演者の数も半端じゃなかった。
確か20組くらい出てたはずだ。さらに飛び入りで1曲のみを10人くらいが歌ったんじゃないかな?
とにかく主催者の伊藤さんは気を使いすぎで、なんだか可愛そうになってしまうくらいぺこぺこしていた。
そして苦しそうで、悩んでる感じで、びくびくしてて、あれでいいのか?と疑問だった。

打ち上げでも同様だった。お酌して回り、そのたびにナンクセつける奴もいて(なんだよ!あの仕切り方は
よー!みたいな)イベント自体は思ったより楽しめたのだが、主催者の仕切りが非常に哀れだった。
可愛そうになった僕は伊藤さんに「次回は俺も手伝いますよ。なんでも言ってください!」と言ってしまった。
そしてその年の秋、第二回アコースティックゲリラは伊藤さんと僕の二人のコンビで準備から進めていった。
初めてこういうイベントの裏方をやってみると、意外にめんどくさく大変だったが、やりがいがあることだった。
一緒に看板をベニヤ板から塗って作ったり、スポンサーをつけよう、と飛びこみで上野のアメ横を片っ端から
営業して回ったりした。そして伊藤さんともやたらと顔を合わせるようになった。

ずいぶん一緒に飲んだが、この人、飲むととっても涙酒なのだ。こんな人は初めてだった。僕より5つほど
上だったが何故かいつでも僕の方がなだめている、という妙な図式。仙台の気仙沼あたりの人で酔うと
東北弁で愚痴ばかりを語り、「東北の人は陰気だ。」という噂を何十倍にも正当化する飲みっぷりだった。
何度嫌気がさしたことだろう…。また飲んで帰れなくなって泊めてもらったことがあったが、その人の部屋は
信じられないほど汚く、僕もそののち「おまえの部屋ほど汚い部屋は見たことがない!」と言われるはめに
なるのだが、絶対!絶対!それよりすごかった!はずだ…。

空しく散らばるエロ本やエロビデオの山、丸まったティッシュがそこら中に散乱し、使用済みのパンツも
所狭しと幅を利かせていた。その状態で「井上君、ニールヤングの唄の通り、やっぱり男には女が必要
だよ。」などと暗く語られても返す言葉が馬鹿馬鹿しくなるだけだった。「もう寝よう!」と言われ、絶えがたい
悪臭の中、朝まで頑張り、日の出とともに駅にダッシュする、なんて思い出があります。

なんとか二回目のコンサートを終えた時、俺の中にはもっとこうしたい!あーしたい!というのが広がっていた。
そして、悪いけど伊藤さんと一緒にやると気持ちがダウンしていくのでそれも避けたいな〜・・という意識。だって
いつも辛そうなんだもん!東京は冷たい、田舎は暖かい、ばかり。そして女がほしい!それなら田舎に帰って
お見合いでもすればいいでしょ!

ただ敢えてここで彼の名誉のために言わせてもらうと、ここまで書いて今頃遅いとは思うけど、いい人でした
…。それだけしか言えません。

その後僕はパワーが抜けきった伊藤さんを尻目に自分で勝手に会場を予約して押さえ、名前もゲリラなんて
うさん臭い名前はやめて、もっとかっこいいの!そうだ!「アコースティックボイスだ!」そう決定し、出演者も
新たに翌年からスタートした。乗っ取ったってわけじゃないかもしれないけど、伊藤さんがその前のゲリラを
やってなかったら、「アコボ」はたぶんやってないな。ゲリラの時のやり方をある程度受け継いだのも確か
だからだ。
伊藤さんはその後田舎には帰らず意外にも悪徳な商売をやってることを知り、びっくりした。人は
見かけによらんなー。)

そして明るく元気に始めたつもりのアコースティックボイスだったが、楽屋はまるで空手部の部室のように
殺伐として暗く、ただ「歌わせろー!」とうめく不細工な野郎どもの巣窟になっていた。
「これは、ど、どうしたらいいんだ…!?」と呟く井上ともやす25歳の春だった。

つづく・・・




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